塩の役割と加減
山上の説教の9つの幸いシリーズに続いてイエスが語るのは、天の国の住人として自覚しながら生きる時、それがこの世にどのような違いを生むかについてである。私たちが何者なのか、どのような役割を果たすことが期待されている存在なのか。それを教え、その使命に生きるように励ます。
斎藤信一郎牧師の、聖書あれこれ
山上の説教の9つの幸いシリーズに続いてイエスが語るのは、天の国の住人として自覚しながら生きる時、それがこの世にどのような違いを生むかについてである。私たちが何者なのか、どのような役割を果たすことが期待されている存在なのか。それを教え、その使命に生きるように励ます。
山上の説教のはじめの7つの幸いではイエスは現在のこととして語っているが、今回の第三部では過去形が用いられている。この世ではだれもが神の目に正しいことをしようとして、思うようにいかなかった経験を過去にもつ。悲しみも迫害も、本来さいわいであるはずがないと考えるのが世の中の常識。でも、イエスはそのような者に向けて「さいわい」なり、と励ますのである。未来にはこの地上におけるどんな負の賜物も決して見落とされることはないばかりか、その報いはさらに大きいと励まして下さっている。
前回取り扱った「こころの貧しい人」、「悲しんでいる人」、「柔和な人」は、いずれも我々の心の内面で起きる事柄であった。対して今回の4つ、「義に飢えかわいている人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和をつくり出す人」は、いずれも他の誰かとの関わりが生じる内容になっている。今回はこれを前提に個々の事例に踏み込むと共に、前回同様にそれぞれが次の「幸い」とどのように関わり、発展していくのかを引き続き見ていきたい。
山上の説教の最初に「こころの貧しい人」を幸いだと語るイエス。日本では「こころの貧しい人」というのは「心が卑しい人」のように勘違いされそうな表現。しかし、その本来の意味は「神の愛に満たされていない人」、つまり神の愛、励まし、助けを必要としている人のことである。そのような人たちのために、神は天国を用意されたとイエスは最初に語ったのである。
4人の漁師をはじめて弟子にした場面に続く今回の話はイエスの宣教をまとめたような内容になっている。マタイはイエスの宣教の総括を述べてから、次回5章から始まるイエスの教えシリーズを展開していく。マタイがこのような話の進め方をした背後には聖霊の導きがあったと信じる。聖書は神の霊感によって書かれた書物である。今回のような箇所からも神の福音を聞き取っていきたい。
イエスが最初に弟子にしたのが二組の漁師の兄弟であった。彼らを勧誘したときのイエスの言葉「人間をとる漁師にしてあげよう」これはどのような意味であろうか。 漁師とイエスの宣教の共通点、そして彼らを背後で支えた家族の存在を読み取りながら、主イエスがそれぞれの賜物を用いてくださることを期待したい。
「悔い改めよ、天国は近づいた」 イエスの3年半の宣教活動で行った宣教を最大限短い言葉で表現したのがこの言葉であろう。「悔い改めよ」と聞けば「罪」が連想されることが多いが、イエスの宣教は「罪」に焦点を合わせるのではなく、むしろ「神」に焦点を合わせるための呼びかけだと言える。「神の教えに人生の照準を当てて生きよ」という呼びかけである。このような意味で「悔い改めよ=方向転換せよ」と呼びかけた。
新年度を迎え、マタイによる福音書からイエスが成し遂げようとされた宣教(神の意志)に耳を傾けていく。宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷での悪魔の誘惑に対し、イエスは『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と表現した。それで引き下がらなかった試みる者=悪魔の残り2つの誘惑、後編はこれらを扱う。
新年度を迎えました。これから秋にかけてマタイによる福音書を読みながら、イエスがなされた味わい豊かな宣教に耳を傾けて参ります。最初は宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷を取り上げます。ここからイエスの宣教が揺るぎないものとなっていきます。共にそのみことばに耳を傾けて参りましょう。
イエス・キリストが「わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」を信じるか、それとも信じないのか。キリスト教信仰とは信じた後の応答の仕方が問われる。そして実際にはそれをどう実行するのかをイエス・キリストの復活の意味とともに見てゆく。