荒野の誘惑・後編
新年度を迎え、マタイによる福音書からイエスが成し遂げようとされた宣教(神の意志)に耳を傾けていく。宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷での悪魔の誘惑に対し、イエスは『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と表現した。それで引き下がらなかった試みる者=悪魔の残り2つの誘惑、後編はこれらを扱う。
斎藤信一郎牧師の、聖書あれこれ
新年度を迎え、マタイによる福音書からイエスが成し遂げようとされた宣教(神の意志)に耳を傾けていく。宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷での悪魔の誘惑に対し、イエスは『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と表現した。それで引き下がらなかった試みる者=悪魔の残り2つの誘惑、後編はこれらを扱う。
新年度を迎えました。これから秋にかけてマタイによる福音書を読みながら、イエスがなされた味わい豊かな宣教に耳を傾けて参ります。最初は宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷を取り上げます。ここからイエスの宣教が揺るぎないものとなっていきます。共にそのみことばに耳を傾けて参りましょう。
イエス・キリストが「わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」を信じるか、それとも信じないのか。キリスト教信仰とは信じた後の応答の仕方が問われる。そして実際にはそれをどう実行するのかをイエス・キリストの復活の意味とともに見てゆく。
マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜか。弟子たちに語った目的とは。どんな内容を理解して欲しかったのか。受難週を次週に迎える今回は、マタイによる福音書20章に書かれている十二弟子だけに語られた受難予告から、十字架刑が意味するところ、そして預言者イザヤを通してこのことが神の御心であったことを確認していく。
マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜだったのか。弟子たちにどんな目的で語ったのか。どんな内容を理解して欲しかったのか。今回のシリーズの興味はそこにある。 それぞれの受難予告を比較検討していく時、そこに違いが存在することに気づく。そして次第にイエスの真の意図が見えてくる。24日に受難週、31日にイースターを迎える今だからこそ、共に理解を深めておきたい。
どの福音書にもイエスが3度受難予告をしたことが記されている。マタイによる福音書では、16章、17章、そして20章でそれらを取り上げている。 それらはいつどのような状況の時に話されたのか。また、それぞれの受難予告には違いがあるのか。今月24日に受難週を迎え、31日はイースター礼拝となる。この機会にイエスが繰り返し受難予告をした理由について理解を深めていく。今回は16章全体を視野に入れながらイエスの受難予告を共に考えていく。救いの概念がさらに豊かにされることを期待して。
聖書は始めから一貫して、「神が人類の罪を贖(あがな)おうとされている」ことを主張している。4番目にして、シリーズ最終回となる今回の箇所では、やがてイスラエルと名前を改名することになるヤコブ(アブラハムの孫でイサクの子ども)の最愛の子ヨセフと彼の兄弟たちとの間で展開する贖罪の話である。その内容は人類の救い主イエス・キリストの生涯と神から託された役割を示唆していることをご一緒に確認していきたい。
今月2月14日(水)から受難節(レント)が始まり、3月24日(日)に受難週、そして翌週31日(日)がイースター礼拝である。それにふさわしい宣教シリーズとして今月は創世記に登場する贖罪関連のみことばに聞いている。
今週の2月14日(水)から受難節(レント)が始まり、3月24日(日)に受難週、そして翌週31日(日)がイースター礼拝である。それにふさわしい宣教シリーズとして今月は創世記に登場する贖罪関連のみことばに聞いていく。
今年は2月14日(水)から受難節(レント)が始まり、3月24日(日)に受難週、そして翌週31日(日)がイースター礼拝である。それにふさわしい宣教シリーズとして今月は創世記に登場する贖罪関連のみことばに聞いていく。