マタイによる福音書

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聖霊の祝福の条件/特別信徒研修会Ⅰ

聖霊について理解するということは、キリスト教における最重要テーマの一つではなく、最重要テーマを理解することである。創造主なる神やイエス・キリストに比べると、聖霊については、かなり曖昧な理解しかできていないと感じている人も多いのではないだろうか。今回の研修の目的はこれに終止符を打つこと。聖霊の祝福とは何か、どうしてキリスト教信仰において必要不可欠なのか。なぜ最重要テーマなのか。今回の研修でこのことが確信できる時になるように祈る。

霊的な日毎の糧

祈る目的はなんだろうか。神への頼み事ではない。主イエスの祈りの第一の祈りでは、神がどのようなお方なのかを黙想しながら、神が招かれる祈りの場に心身を鎮めて御前に出る。第二の祈りは、この特別な特権に参与できるようになるために御子イエス・キリストと聖霊が今も果たして下さっている役割に対して感謝に満たされながら、人生の目的を再確認する。こうして第三の祈りの扉が開かれることになる。主イエスの祈りは祈りに革命を興す祈りである。一般的な祈りとは一味も二味も違うことを今回も確認していきたい。

キリストと聖霊を喜ぶ祈り

今日の宣教題と主の祈りの第二番目の祈りとがどのように結びつくのだろうかと疑問に思った方も多いのではないだろうか。主イエスの祈りの二番目の内容は「御国」と「みこころ」と「天と地」という聖書の重要語から成り立っているが、キリストも聖霊もどちらも語られていない。さっそくその切っても切り離せない理由を理解していきたい。

祈る前の作法

「祈りほど重要なクリスチャンの使命はない」と多くの人が言う。しかし、祈りには作法があるとイエスは言う。これを突き詰めていく時、祈る内容や順番も重要である(間もなく「主の祈り」で取り上げる)が、祈る前の準備と心構えが祈りそのものを大きく左右するとイエスは教える。

主の臨在を意識して

今回、冒頭で用いられている「自分の義」という言葉は今日の箇所で数回用いられている「施し」に置き換えることができる言葉。自分が持っているもので、誰かの欠乏を補うこと。それが施しである。これは聖書ではとても重要な人間の使命として登場する言葉である。しかし、そんな善行にも落とし穴が存在するとイエスは言う。これを理解することが今回の大事なポイントとなる。

最高にハードルが高い教え

世の中には簡単には許せない様々な出来事がある。到底許すことなど不可能と思うような人道に反する凶悪事件を起こした人を、憎まずに愛し、赦すことなどできるだろうか。これは非常に難しいはずである。そこで今回の教えを理解するカギとなる最初の単語「敵」を理解することから始めたい。

『目には目を』の本当の意味

 紀元前1700年代モーセ五書よりもおよそ三百年早く成立したハンムラビ法典に、はじめて「目には目を、歯には歯を…」という法律の文言が登場する。この部分は犯罪を抑止するために被害者が加害者に復讐していい限度を規定した世界的に画期的な法律であった。それまでの際限のない復讐劇が繰り広げられていた世界から考えるならば、相当な進歩と言える。これと似て非なるものが聖書に登場する「目には目を、歯には歯を…」である。

神の視点・姦淫と離婚

山上の説教でイエスが次に取り上げたとされる教えは十戒の第7戒に関するものだった。この戒めは現代で用いられている「姦淫」という言葉とはかなり違うことをまず理解しておきたい。聖書が語る「姦淫するな」という教えの一つ目の勘所は「神が祝福される仕方で健全な結婚生活をせよ」という結論に至る。神が与えたい幸福な生活のためには姦淫しないことが重要だと十戒では強調しているのである。二つ目はさらに大きな概念で語られる姦淫のことで、創造主なる神との正しい契約関係から外れた生き方を指している。

和解の極意

イエスは先週取り上げた24節でも和解を実現してから礼拝を捧げよと語られた。そして今回の25節でも和解の必要性を解いておられる。前回は自分から積極的に和解を実現していく話であったが、今回は相手に訴えられて裁判所に向かう危機的な場面設定である。前回はどちらに非があるのかはっきりしない内容だったが、今回は自分に非があることが前提になっているなどの違いがある。イエスはどのような理由で和解がそれほど大切だと繰り返し教えておられるのだろうか。本日の聖句とさっそく向き合っていこう。

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