主の臨在を意識して
今回、冒頭で用いられている「自分の義」という言葉は今日の箇所で数回用いられている「施し」に置き換えることができる言葉。自分が持っているもので、誰かの欠乏を補うこと。それが施しである。これは聖書ではとても重要な人間の使命として登場する言葉である。しかし、そんな善行にも落とし穴が存在するとイエスは言う。これを理解することが今回の大事なポイントとなる。
斎藤信一郎牧師の、聖書あれこれ
今回、冒頭で用いられている「自分の義」という言葉は今日の箇所で数回用いられている「施し」に置き換えることができる言葉。自分が持っているもので、誰かの欠乏を補うこと。それが施しである。これは聖書ではとても重要な人間の使命として登場する言葉である。しかし、そんな善行にも落とし穴が存在するとイエスは言う。これを理解することが今回の大事なポイントとなる。
世の中には簡単には許せない様々な出来事がある。到底許すことなど不可能と思うような人道に反する凶悪事件を起こした人を、憎まずに愛し、赦すことなどできるだろうか。これは非常に難しいはずである。そこで今回の教えを理解するカギとなる最初の単語「敵」を理解することから始めたい。
紀元前1700年代モーセ五書よりもおよそ三百年早く成立したハンムラビ法典に、はじめて「目には目を、歯には歯を…」という法律の文言が登場する。この部分は犯罪を抑止するために被害者が加害者に復讐していい限度を規定した世界的に画期的な法律であった。それまでの際限のない復讐劇が繰り広げられていた世界から考えるならば、相当な進歩と言える。これと似て非なるものが聖書に登場する「目には目を、歯には歯を…」である。
山上の説教でイエスが次に取り上げたとされる教えは十戒の第7戒に関するものだった。この戒めは現代で用いられている「姦淫」という言葉とはかなり違うことをまず理解しておきたい。聖書が語る「姦淫するな」という教えの一つ目の勘所は「神が祝福される仕方で健全な結婚生活をせよ」という結論に至る。神が与えたい幸福な生活のためには姦淫しないことが重要だと十戒では強調しているのである。二つ目はさらに大きな概念で語られる姦淫のことで、創造主なる神との正しい契約関係から外れた生き方を指している。
イエスは先週取り上げた24節でも和解を実現してから礼拝を捧げよと語られた。そして今回の25節でも和解の必要性を解いておられる。前回は自分から積極的に和解を実現していく話であったが、今回は相手に訴えられて裁判所に向かう危機的な場面設定である。前回はどちらに非があるのかはっきりしない内容だったが、今回は自分に非があることが前提になっているなどの違いがある。イエスはどのような理由で和解がそれほど大切だと繰り返し教えておられるのだろうか。本日の聖句とさっそく向き合っていこう。
先週から今週にかけて神学校週間が持たれている。聖書解釈が独善的にならないために、どのような姿勢で聖書の教えと向き合うべきなのか、神学生にとっても大切な心得をイエスはこのシリーズで語っている。今週も1993年~1996年にかけて私が西南学院大学神学部で学んだ事柄を交えながら前回も取り上げた最後の2節の理解を深めていく。
山上の説教のはじめの7つの幸いではイエスは現在のこととして語っているが、今回の第三部では過去形が用いられている。この世ではだれもが神の目に正しいことをしようとして、思うようにいかなかった経験を過去にもつ。悲しみも迫害も、本来さいわいであるはずがないと考えるのが世の中の常識。でも、イエスはそのような者に向けて「さいわい」なり、と励ますのである。未来にはこの地上におけるどんな負の賜物も決して見落とされることはないばかりか、その報いはさらに大きいと励まして下さっている。
前回取り扱った「こころの貧しい人」、「悲しんでいる人」、「柔和な人」は、いずれも我々の心の内面で起きる事柄であった。対して今回の4つ、「義に飢えかわいている人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和をつくり出す人」は、いずれも他の誰かとの関わりが生じる内容になっている。今回はこれを前提に個々の事例に踏み込むと共に、前回同様にそれぞれが次の「幸い」とどのように関わり、発展していくのかを引き続き見ていきたい。
山上の説教の最初に「こころの貧しい人」を幸いだと語るイエス。日本では「こころの貧しい人」というのは「心が卑しい人」のように勘違いされそうな表現。しかし、その本来の意味は「神の愛に満たされていない人」、つまり神の愛、励まし、助けを必要としている人のことである。そのような人たちのために、神は天国を用意されたとイエスは最初に語ったのである。