キリスト教特有の教え① 新しい戒め

はじめに

四月下旬から今月までの数ヶ月にわたり、多くの方にご心配いただき、祈りとご支援を賜り感謝いたします。本日の宣教復帰に先立ち、講壇には座ったままで話せるようにちょうどいい椅子を設置してくださいました。退院後は低血圧と左足先の不調が続いていたため、安心して宣教に専念できると思います。感謝します。

本日以降「キリスト教特有の教え」をテーマに語りたいと思います。イエス・キリストはユダヤ人たちが大切にして来た聖書理解とどのように違っていたのでしょうか。それが当時の指導者たちとは大きく違っていたからこそ、危険視され、敵視されて十字架刑に至ってしまったと言えます。
国内外において分断と対立が頻繁に起きる現代だからこそ、キリストが命懸けで後世に伝えようとした教えを理解し、共に平和を実現する道をイエスの教えから導かれたいと願います。

新しい戒めとはどんな戒めなのか

ヨハネによる福音書13章34節(164p)

34節「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」

イエスが語る互いに愛するとは、一般的な意味での「人を愛する」ことではなく、弟子たちが互いにイエスのように神の愛を実践することでした。それは伝統的なユダヤ教の教えとも、世界の常識とも違っていました。イエスはこれらを否定してマタイ福音書5章44~45節で「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」と教えられました。

イエスがこの教えに忠実でなかったなら、十字架に付けられて極限の苦しみと辱めを同胞のユダヤ人たちから受けた時、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」とルカ福音書23章34節のように祈ることもできなかったことでしょう。

この箇所で重要なのが、イエスが神さまのことを「」と表現していることです。イエスは、父なる神の子としての自覚を持つだけでなく、実際に神の子としてふさわしい生き方を貫かれました。この信仰もまた、当時のユダヤ人たちの神経を逆なでしました。当時の一般常識として、全能なる神を父と呼ぶこともまた神を冒涜する行為とみなされたからです。

また、この教えは様々に反論が可能です。たとえば自分の子どもを醜い仕方で蹂躙されたり、殺されても「敵を愛せ」というのかと。このような反論に賛同する人も多いかと思います。しかし、イエスの教えは「新しい戒め」であることを忘れてはならないのです。

そもそも、神ご自身が最大の被害者であることを忘れてはなりません。地上の人々を罪と呪いから救うために送った一人子イエス・キリストでした。それを神が長年多民族から保護し、守って来た当のユダヤ人たちが蹂躙し、極限の苦痛を与えて殺害したのです。しかも呪いを象徴する死刑の道具で一人子をこの世から排除されたのが、人類を救おうとされた神が受けた仕打ちです。この神以上に復讐する権利を持つ存在があるでしょうか。人類は、既に何度滅ぼされてもおかしくない過ちを繰り返し犯してきた存在です。そんな人類に対して、イエス・キリストは人類に向けて命懸けで神の覚悟を伝え、新しい戒めに生きることを呼びかけたのです。

 「(父なる神と)わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」

神の愛とは自分には到底不可能と思えることを神の助けを借りて実践すること

このようなことが本当に可能なのでしょうか。たとえば敵(かたき)を討つことは美徳だと伝統的に考えられてきた日本。自国の殿様を切腹へと追い込んだ憎き政敵を幾多の困難を乗り越えて仇(あだ)を討つという忠臣蔵物語。敵を憎み、極限の忍耐をいとわずに復讐するまで志を曲げない。日本でも圧倒的人気を誇ってきた物語。
日本人に受け入れられてきたこの価値観を根底から覆すのがイエスの新しい戒めです。ユダヤ人や日本人でなくても、戦争が絶えない世界中の人々の常識とかけ離れた教えを説いたイエスでした。これは実践不可能と呼べる次元のイエス特有の教えの一つなのです。これに怖じ気づくことなく、この教えとどう向き合えばいいのでしょうか。

解決の糸口は、父なる神への揺るぎない信仰と信頼!

これから毎週取り上げるイエスの教えはすべて実行することが到底不可能と思えるキリスト教特有の教えばかりです。それでも妥協は許されません。これには大前提として覚悟を決めなればならない信仰の決断が存在します。イエス・キリストはそれを次のように表現しました。
マルコ福音書10章27節「人にはできないが、神にはできる。」との確たる信念です。

神は最終的にはこの世のすべての悪、犯罪、不正を裁かれる神です。時代劇で人気の水戸黄門。どんなに悪代官が一時的に悪行の限りを尽くしても、最終的には助さんこと佐々木助三郎と格さんこと渥美格之進が「控えい、この紋所が目に入らぬか」と宣言して水戸のご老公の印籠を出し、当人である水戸光圀公が登場することによって悪に対して容赦ない裁きが行われ、気持ちよく悪が成敗される時代劇。
キリスト教特有の教えも、最後の審判によって最終的には悪という悪が容赦なく裁かれることが大前提に据えられているからこそ、忍耐する意味が出てくるのです。そればかりでなく、神の愛を忍耐と共に実践した者たちには、それを上回る癒しと慰め、祝福と栄誉が必ず与えられると約束されているのです。

父なる神への揺るぎない信仰と信頼に生きるとは

クリスチャンは誰かが肉体的、あるいは心理的・人格的に蹂躙されるような出来事に遭った時、烈火のごとく怒って対向していいのです。ただし、倍返しとか、目には目をのような復讐方法は選ばないことが求められます。

キリスト召天後、初代教会で執事職に選任されたステパノが殉教の死を遂げる物語が使徒行伝にあります。ユダヤ人たちに敵視され、石を投げつけられて意識が遠のいていく中でステパノはキリストと同様の態度と祈りで対処したことが語られています。7章59-60節・・・
彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい。」そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」こう言って、彼は眠りについた。・・・とあります。

神の愛、キリストの愛とは愛されなくても自発的に愛する愛です。見返りや公平性を求める愛でもありません。神から無条件に愛されていること、そして神を父として祈ることが許されている神の子としての自覚・信仰に基づいて敵を愛し、迫害する者のために祈るのがクリスチャンの生き様です。この時、その神聖な場に居合わせてステパノを殺害する側にいた一人が、やがて改心し、大伝道者となっていく使徒パウロでした。
神の愛の実践者は自分自身が憎しみの連鎖地獄から救われていくだけでなく、他の人をキリストの愛に導く扉を開いていく可能性もあるのです。今週のあらゆる場面にもう一度適用していきたいキリスト教特有の教えです。

ペテロの第一の手紙4章8節

何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」

 

2025年7月13日(日)   北九州キリスト教会宣教題
「キリスト教特有の教え① 新しい戒め」

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