キリストと聖霊を喜ぶ祈り
今日の宣教題と主の祈りの第二番目の祈りとがどのように結びつくのだろうかと疑問に思った方も多いのではないだろうか。主イエスの祈りの二番目の内容は「御国」と「みこころ」と「天と地」という聖書の重要語から成り立っているが、キリストも聖霊もどちらも語られていない。さっそくその切っても切り離せない理由を理解していきたい。
今日の宣教題と主の祈りの第二番目の祈りとがどのように結びつくのだろうかと疑問に思った方も多いのではないだろうか。主イエスの祈りの二番目の内容は「御国」と「みこころ」と「天と地」という聖書の重要語から成り立っているが、キリストも聖霊もどちらも語られていない。さっそくその切っても切り離せない理由を理解していきたい。
礼拝の中で毎週唱えている主の祈り。個人的に主の祈りを日課のように祈っている人も多い。しかし、主の祈りを唱える時以外で、どれだけ我々は主の祈りで示される祈りの原則や模範を参考に祈っているだろうか。
「祈りほど重要なクリスチャンの使命はない」と多くの人が言う。しかし、祈りには作法があるとイエスは言う。これを突き詰めていく時、祈る内容や順番も重要である(間もなく「主の祈り」で取り上げる)が、祈る前の準備と心構えが祈りそのものを大きく左右するとイエスは教える。
今回、冒頭で用いられている「自分の義」という言葉は今日の箇所で数回用いられている「施し」に置き換えることができる言葉。自分が持っているもので、誰かの欠乏を補うこと。それが施しである。これは聖書ではとても重要な人間の使命として登場する言葉である。しかし、そんな善行にも落とし穴が存在するとイエスは言う。これを理解することが今回の大事なポイントとなる。
世の中には簡単には許せない様々な出来事がある。到底許すことなど不可能と思うような人道に反する凶悪事件を起こした人を、憎まずに愛し、赦すことなどできるだろうか。これは非常に難しいはずである。そこで今回の教えを理解するカギとなる最初の単語「敵」を理解することから始めたい。
紀元前1700年代モーセ五書よりもおよそ三百年早く成立したハンムラビ法典に、はじめて「目には目を、歯には歯を…」という法律の文言が登場する。この部分は犯罪を抑止するために被害者が加害者に復讐していい限度を規定した世界的に画期的な法律であった。それまでの際限のない復讐劇が繰り広げられていた世界から考えるならば、相当な進歩と言える。これと似て非なるものが聖書に登場する「目には目を、歯には歯を…」である。
山上の説教でイエスが次に取り上げたとされる教えは十戒の第7戒に関するものだった。この戒めは現代で用いられている「姦淫」という言葉とはかなり違うことをまず理解しておきたい。聖書が語る「姦淫するな」という教えの一つ目の勘所は「神が祝福される仕方で健全な結婚生活をせよ」という結論に至る。神が与えたい幸福な生活のためには姦淫しないことが重要だと十戒では強調しているのである。二つ目はさらに大きな概念で語られる姦淫のことで、創造主なる神との正しい契約関係から外れた生き方を指している。
イエスは先週取り上げた24節でも和解を実現してから礼拝を捧げよと語られた。そして今回の25節でも和解の必要性を解いておられる。前回は自分から積極的に和解を実現していく話であったが、今回は相手に訴えられて裁判所に向かう危機的な場面設定である。前回はどちらに非があるのかはっきりしない内容だったが、今回は自分に非があることが前提になっているなどの違いがある。イエスはどのような理由で和解がそれほど大切だと繰り返し教えておられるのだろうか。本日の聖句とさっそく向き合っていこう。
先週から今週にかけて神学校週間が持たれている。聖書解釈が独善的にならないために、どのような姿勢で聖書の教えと向き合うべきなのか、神学生にとっても大切な心得をイエスはこのシリーズで語っている。今週も1993年~1996年にかけて私が西南学院大学神学部で学んだ事柄を交えながら前回も取り上げた最後の2節の理解を深めていく。
今週から来週にかけてバプテスト連盟に所属する教会で神学校週間が持たれる。聖書解釈が独善的にならないために、どのような姿勢で聖書の教えと向き合うべきなのか、神学生にとっても基本中の基本となる大切な心得をイエスはこのシリーズで語っている。その教えに共に耳を傾けて行こう。