受難予告② 見捨てられる苦しみ
マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜだったのか。弟子たちにどんな目的で語ったのか。どんな内容を理解して欲しかったのか。今回のシリーズの興味はそこにある。 それぞれの受難予告を比較検討していく時、そこに違いが存在することに気づく。そして次第にイエスの真の意図が見えてくる。24日に受難週、31日にイースターを迎える今だからこそ、共に理解を深めておきたい。
斎藤信一郎牧師の、聖書あれこれ
マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜだったのか。弟子たちにどんな目的で語ったのか。どんな内容を理解して欲しかったのか。今回のシリーズの興味はそこにある。 それぞれの受難予告を比較検討していく時、そこに違いが存在することに気づく。そして次第にイエスの真の意図が見えてくる。24日に受難週、31日にイースターを迎える今だからこそ、共に理解を深めておきたい。
聖書は始めから一貫して、「神が人類の罪を贖(あがな)おうとされている」ことを主張している。4番目にして、シリーズ最終回となる今回の箇所では、やがてイスラエルと名前を改名することになるヤコブ(アブラハムの孫でイサクの子ども)の最愛の子ヨセフと彼の兄弟たちとの間で展開する贖罪の話である。その内容は人類の救い主イエス・キリストの生涯と神から託された役割を示唆していることをご一緒に確認していきたい。