目からウロコの創世記シリーズ⑧ 神の人格

創世記1章4-8節(旧約聖書1p)

 1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である1:6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ1:7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた1:8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である

じめに…神様の4つの人格を掘り下げていきます

聖書は、神の存在と、神が計画された人生の目的を忘れてしまった人類への「ラブレター」です。創世記第1章の冒頭から、神は人類に対し、物心両面で積極的に関わり続けておられる人格(神格)を持ったお方として登場しています。創世記第1章の宣教シリーズも大詰めの第六日を迎えました。今回から数回にわたり第六日を扱いながら、この人格を持った神についてさらに掘り下げて参ります。26節に「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り…。」とあります。私たちは、神様の「かたち」に「かたどって」創造されたのです。これは神様の代理人として、神様から分け与えられた人格を用いて全被造物を神様の祝福へと導くためです。この尊い使命を忠実に果たすために、今月は創世記第1章で強調されている4つの特筆すべき神の人格を再確認していきます。今回はその内の「分ける神」を取り上げます。これを通して神様の人格をどのように日常生活の中で実践すればいいのか、理解を深めていきましょう。そこには勘所と落とし穴があることにも目を向けていきます。

「分ける神」

私たちに神様のように「分ける」能力が与えられているということは、「物事を区別する」能力や「違いを識別する」能力が与えられているということです。また、次の段階として「善と悪の区別」や「敵味方の判別」を行う能力を用いて神の意志に沿う結果を出すことが求められているということです。

そこで問われるのは、この能力を正しく発揮できるかどうかです。私たちは、神様特有の愛と正義と忍耐に満ちた人格をこの世界の隅々まで実践し、浸透させることが求められています。聖書が指し示す「天国」とは、これが完成した場所のことです。したがって、これを実践して身に着けることができた人は天国に招かれ、できなかった人は神の敵対者として天国に入れないという結果を招くことになります。

ところが、聖書が一貫して人類に突きつける大問題が存在します。それは、神に対して罪を一度でも犯した者は例外なく神の敵対者となり、神や天国の祝福から必然的に遠ざかってしまった状態にあるということです。これを招いたのは自らの意志で神に対して罪を犯し、遠ざかってしまった人間側にあるという点を強調しておきます。神様の側では、世の終わりの最終段階まで忍耐を重ね、罪を赦し、私たちとの関係を改善しようとしておられるのです。天国は私たちのためにあるのですが、私たちが自らの意志で祝福に満ちた天国を遠ざけてしまっていると聖書は証言しています。この世界に悪や不条理、悲しみや苦しみが存在するのは神様のせいではなく、私たち人間の側に問題があるからです。

繰り返し述べていることですが、このような現実を避けられないのは、私たちに選択の自由があるからです。そして、その選択には責任と結果が伴います。それがなければ、この世界は達成感、喜びや感謝もない無味乾燥とした世界になってしまいます。神様は間違いを犯せない「選択の自由がない機械のような世界」を創造されたのではなく、愛と正義と忍耐の結果から生まれる祝福に満ちた世界を創造されたのです。

聖書の裏付け

今回のテーマは聖書全体で貫かれている大事なものです。それをいくつか紹介します。

*エレミヤ書6:16
主はこう言われる、「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。」しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った。』

神様は平安と祝福を体験できるように導いて下さっています。そのために絶えず「善と悪」や「神様の御心とそうでないもの」とを区別・判別する必要があります。その能力を与えられている私たちですが、いざ実行するとなると、そう簡単ではないのも事実です。

次の聖句もそれを示唆しています。

*ローマ人への手紙7:18
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」使徒パウロの言葉(詩編14編1-3節からの引用)

人類最初の家族であるアダムとエバと、長男カインと次男アベルも、この現実から逃れることはできなかったことが創世記4章までに赤裸々に語られています。神から与えられている人生の使命から心が離れる時、人がいかに神に対して罪を犯し、取返しがつかない過ちを犯す可能性があるかを警告しています。

人類の始祖たちでさえ、そうなのですから、マタイ福音書のイエス様と弟子たちの会話も頷けるのではないでしょうか。

19:24「…神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて…、「では、だれが救われることができるのだろう」。19:26 イエスは…言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。

『目的地を見据えて人生という航路の舵を取る』

イエス様は、生涯を通して助け主なる神様と二人三脚で絶えず軌道修正しながら神様との正しい関係を築きあげていくことの大切さを弟子たちに教えられました。それは、小さな神様への服従の積み重ねから生まれてくるものなのです。

巨大な豪華客船の舵は、船全体の大きさに比べればほんの小さな部品に過ぎません。しかし、港を出る時からその舵を右に「1度」切るか、左に「1度」切るかという小さな「分け方」を継続できるかどうかで、数日後には目的地に到着するか、全く別の荒れ果てた島に到着するかという決定的な違いを生みます。船長は忠実なクルーが告げる軌道修正情報に信頼し、舵をその都度修正しながら目的地に向かうことによって無事に船を最終目的地に導くことができるのです。

神様は私たちを、決まった航路しか進めないレールの上を走る列車(機械)としてではなく、自ら舵を取る船長として造られました。そして、その時に不可欠な伴走クルーがイエス様です。今日、私たちが御心に従って「善」を選び、歩むべき道をイエス様と共に「分ける」という小さな決断は、神様の祝福の中にあり続けることができるかどうかの大きな分かれ道になっているのです。今週も神様の創造目的の中に生きるように招かれている者(天に国籍を持つ者)として共に主と歩み続けましょう。

2026年3月1日(日)  北九州キリスト教会宣教題
「目からウロコの創世記シリーズ⑧ 神の人格」

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