主の名を呼び求める者

はじめに

聖霊降臨日に起きたことを正しく理解することは非常に重要です。復活後の聖霊との関わりが、なぜそれほど重要なのか。聖霊の働きは、それまでとはどのように違うのか。そして、その後のキリスト教会の歴史にどのような変化をもたらしたのか。このことを理解するとき、現代においても、聖霊に主導された人生と教会形成こそが最重要課題だということが見えてくるのです。

聖霊降臨後の最初の説教の冒頭の内容に注目

使徒行伝2章1-4、12-21節(新約181p)

1節 五旬節の日がきて…4節…一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。…12節 みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、①「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。…14節 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた…16節…これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、17節 『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。18節 その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。19節 また、上では、天に奇跡を見せ、/下では、地にしるしを、/すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、/見せるであろう。20節 主の大いなる輝かしい日が来る前に、/日はやみに/月は血に変るであろう。 21節 そのとき、主の名を呼び求める者は、/みな救われるであろう』。

これが、聖霊降臨日になされた世界最初の説教の冒頭部分です。この日はイスラエル暦においては非常に重要な日でした。イスラエルの三大祭りの一つである「初穂の祭り(五旬節)」が行われる日だったからです。そのため、周辺諸国から非常に多くの巡礼者が集まっているタイミングでした。朝の9時頃、神殿では祭壇に小麦の初穂が捧げられているまさにその頃、聖霊が作り出した激しい風のような大音響に驚いて、町中の巡礼者たちが、聖霊に満たされた弟子たちのもとへと集められました。そこで彼らが目にしたのは、約120名の弟子たちが、約15カ国語もの他国の言葉で神様の大いなる御業をほめたたえている場面でした。これを目撃した人々は、興味をそそられずにはいられなかったのです。

世界最初の説教の冒頭部分の特徴

ペテロは聖霊に促されて、すぐさま語りだします。そのポイントは4つです。

①最初ペテロは、この場で起きていることは、決して一部の人が嘲(あざけ)ったような「酒に酔った人々によるたわごと」ではないということを説明しました。

②そして、弟子たちが巡礼に来ていた人々の生れ故郷の国語で神の御業を賛美しているのは、ヨエル書2章28節以降の預言の成就に他ならないと主張しました。この預言から、この日に集まって聖霊に満たされていたのは、老若男女やその僕たちを含む、あらゆる身分の弟子たちであったことが分かります。ペンテコステの出来事は、決してイエス様を取り巻いていた一部の活動的な成人男性たちだけで起こったのではないということが、ここに明確にされているのです。

③さらに同ヨエル書の後半部分にある、これから起きる天変地異についての預言に言及します。これはユダヤ人たちにとって「メシヤ(救い主)の到来」に関する重要な預言と見なされていました。メシヤが来られる時には、様々な天変地異や天体現象が起きると信じられていたためです。ペテロがあえてこの箇所を引用したことは、聞き手に対して、今がただならぬ時であるという一定の緊張感と、何らかの備えが必要だということを改めて自覚させたことでしょう。なぜなら、神様が本気でイスラエルを救うためにことを起こされるという強い意志が現れている箇所だからです。

④その上で、最も肝心な核心である「主の名を呼び求める者は、/みな救われるであろう」という言葉で、ペテロは説教の冒頭部分を結んだのです。

主の名を呼び求める者に求められる自覚

なぜ、世界最初の説教の冒頭に、③のように世の終わりがやってくるかのような危機的な内容が語られたのでしょうか。それは、私たちが霊的に目を覚ましている必要があるからです。また、人間というものは、物事が順調で平和な時には、なかなか本気で神様の前にへりくだり、自分がこれまで犯してきた過ちや罪を真剣に悔い改めようとはしないからです。

主の名を呼び求める者」とは、自分がイエス・キリストの十字架の贖(あがな)いなしには、滅びるしかない存在だということを深く自覚している者のことです。私たちが必死に助けを叫ぶのは、まさに私たちのために十字架を背負って死んでくださった救い主、イエス・キリストに向かってなのです。そして、イエス様を十字架にかけたのは、他でもない私たち一人一人の罪なのだという痛切な自覚を持って、キリストを「私の救い主」と呼び求めるのです。
これは、単に「イエス様を信じます」と頭で信仰告白するだけでは済まされない、もっと切実な、心の底からの叫びが求められている言葉です。この魂の訴えがそこに集まった人々の心に深く突き刺さったからこそ、のちに37節で「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」という、あの真剣な悔い改めの問いが生まれることになったのです。そして、これこそが礼拝に集う者に神様が導かれる信仰姿勢なのです。

おわりに

世界最初の説教は、その冒頭部分から、極めて切実な「人生の方向転換(回心)」を促す内容だったことがお分かりいただけたでしょうか。それは、人生に疲れた人々に、ただ神様の祝福や平安、安らぎを優しく約束するような内容とは程遠いものでした。しかし、これこそがキリストの教えであり、キリスト教の本質なのです。人間の耳にとっては、誰も進んでこのような耳の痛い内容を聞きたいなどとは思わないメッセージでした。この後に続く内容は、さらに厳しさと過激さを増していきます。それでも何より大切なことは、ペテロにこの言葉を語らせているのが、他ならぬ「聖霊の力」だったということです。

人を本当の救いへと導くのは、どれだけ耳に心地よく、心温まる励ましや癒やしに満ちた説教を聞くかによるのではないということを、今日の聖書箇所は明確に示しています。私たちは本来、それほどまでに絶望的な罪の状態にあるのです。しかし、だからこそ、真剣に祈りを捧げる教会の群れによって聖霊が正しく働くとき、人々は神様の圧倒的な権威によって、人生の一大方向転換へと導かれます。世界最初の宣教が行われたこの日、そして神殿に初穂の収穫が捧げられたまさにその時刻に、イエス様のもとへと刈り取られた3,000人もの尊い魂が、大いなる初穂として主の御前に捧げられたのです。

2026年6月14日(日)  北九州キリスト教会宣教題
「主の名を呼び求める者」

礼拝動画は北九州キリスト教会のホームページからご覧いただけます。