伝道の目的①

じめに

日本のキリスト教界において、「伝道」という言葉よりも「宣教」という言葉が好まれるようになって久しく経ちますが、そもそも「伝道」や「宣教」とは何を指すのでしょうか。

それは私たちの生涯を根底から変えてしまうほどのものです。従って伝道とは、礼拝に誘うことではありません。それは特別な人生の変化をもたらすものではないからです。礼拝の説教(ないし宣教)を聞くことでもありません。生きる知恵や励ましを与える程度のことではないからです。これらは、狭い意味では確かに伝道と言えないわけではありません。しかし、聖霊降臨日に行われた世界最初の伝道集会は、人々の人生の価値観と生き方を180度変えるようなインパクトがありました。それこそイエス様が導きたい伝道なのです。

神(聖書)の約束である聖霊を注がれて「真実を知る」体験をすること

使徒行伝2章32-36節(新約183p)

32節 このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。

33節 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

冒頭にある「このイエス」とは、旧約聖書の預言がその身に成就した、ナザレ人イエスのことを指します。この救い主が神から授けられて、その日の120人ほどの人々に注がれたのが、ヨエル書で預言されている「約束の聖霊」だとペテロは宣言しました。聖霊だけが、神様ご自身についての真実を知ることを可能にするのです。イエス様が生前に弟子たちに語った言葉はこうでした。
ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。ヨハネ14章9節」。
ここで、イエス様が語る「父を見た」とは、イエス様が父なる神を「あらわした」ということです。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。ヨハネ1章18節」

聖書が人類に与えられたのも、神のひとり子イエス・キリストがこの世に遣わされたのも、私たちが聖霊を注がれて「真実なる神様を知る」体験をするようになるためなのです。

聖霊は神様が創造された被造物とつながりを持つために存在します

聖霊とのつながりなしに、私たちは神様がどのような存在とご人格を持っておられるのか、真実に理解することができません。また、神様の御心(私たちに求めておられること)も正しく理解することはできません。そして、神様と祈りや賛美を通して深く交わることもできません。さらに、聖霊によって、私たちは聖書を正しく理解する信仰とそれを実行するための能力(賜物)をいただくことができません。聖霊こそ、私たちが創造主なる神と関わりを持つための絶対的必要条件なのです。

聖霊の働きを妨げ、聖霊とのつながりを阻止することが悪魔の最大の焦点

地獄とは、場所のことではありません。聖霊の働きが通じない状況、また聖霊とのつながりが断たれた状態、それが地獄の正体です。それが、聖書が「死ぬ」と警告する罪がもたらす結果なのです。
使徒パウロが、エペソ6章11節で「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」と教えていますが、この「神の武具」はすべて聖霊が与えて下さる霊の武具のことです。それらの6つの武具とは「真理・正義・救い・平和の福音・信仰・みことば」のことです。悪魔は、そのため、最大の脅威となる聖霊の存在から目を背けさせ、聖霊の祝福を真剣に心を合わせて祈り求める人々(教会)を何よりも憎みます。私たちの教会は、悪魔の脅威となりえているでしょうか。この自己検証こそ、現代の教会において最優先の課題といえます。

イエス様を十字架に追いやった張本人としての自覚を持つこと

34節 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、/『主はわが主に仰せになった、35節 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、/わたしの右に座していなさい』

36節 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」

ここに非常に重要な内容が語られています。「神が預言し、遣わしたキリストを、十字架につけた責任と自覚を、イスラエルの全家が持て」とペテロは強調したのです。これこそがキリスト教において伝道の第一段階とは何か、それを定義づけしている信仰なのです。それは、「(絶対に赦されるはずのない)これほどの罪を犯してしまったこのわたしこそが、十字架につけられて永久に地獄で裁かれて当然の存在だった…」と気づくことを意味しています。このような自覚に至ることなど、本来まじめに生きようとしている普通の人には絶対に不可能な要求だと言えます。この不可能で理不尽とも言える要求を突きつけてくるのが聖書の本質です。それを直視するように導こうと今もあきらめずに関わり続けて下さっている聖霊と、その現実から目を背けさせようとする悪魔との攻防が今なお続いています。

神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。ヘブル書4章12節」

私たちに必要なのは一時しのぎの傷の手当をするための絆創膏や頭痛を緩和させる飲み薬ではなく、生死につながる緊急外科手術なのです。その最高難易度の手術を手掛けるカリスマ執刀医が聖霊であり、その際に必要不可欠なのが絶対的に不足している私たちの霊の血液を補うためのイエス様だけが提供できる輸血用の血清なのです。

この緊急手術の特別なところは、これを受けるためには費用はイエス様が既に支払い済みだということです。求められているのは、この手術を受ける同意書を書くこと。そして、特別な白衣を着て、手術台に乗って身を執刀医に完全に委ねることです。これを象徴しているのが教会で行われるバプテスマ・洗礼に他なりません。イエス・キリストは、私たちが死ぬべき定めから命に生きる者となることができるように自らの命の血を与えて下さったお方です。聖霊は、私たちがその尊い命を受け継ぐために最善を尽くして下さる助け主です。

キリスト教はすべてが最高難易度の内容で埋め尽くされているかもしれません。決して、簡単に理解できる内容ではありません。それでも、奇跡は起きるのです。父・子・聖霊なる神様が、それを実現して下さるのです。人間にとっては不可能な最高難易度の手術だからこそ、神様がすべてを引き受けて下さるという圧倒的な『恵み』、それが福音なのです。

2026年7月12日(日)  北九州キリスト教会宣教題
「伝道の目的①」

礼拝動画は北九州キリスト教会のホームページからご覧いただけます。