斎藤信一郎

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山上の説教Ⅱ 平和を創る

前回取り扱った「こころの貧しい人」、「悲しんでいる人」、「柔和な人」は、いずれも我々の心の内面で起きる事柄であった。対して今回の4つ、「義に飢えかわいている人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和をつくり出す人」は、いずれも他の誰かとの関わりが生じる内容になっている。今回はこれを前提に個々の事例に踏み込むと共に、前回同様にそれぞれが次の「幸い」とどのように関わり、発展していくのかを引き続き見ていきたい。

山上の説教Ⅰ 逆転の人生

山上の説教の最初に「こころの貧しい人」を幸いだと語るイエス。日本では「こころの貧しい人」というのは「心が卑しい人」のように勘違いされそうな表現。しかし、その本来の意味は「神の愛に満たされていない人」、つまり神の愛、励まし、助けを必要としている人のことである。そのような人たちのために、神は天国を用意されたとイエスは最初に語ったのである。

シリヤまで広がった福音

4人の漁師をはじめて弟子にした場面に続く今回の話はイエスの宣教をまとめたような内容になっている。マタイはイエスの宣教の総括を述べてから、次回5章から始まるイエスの教えシリーズを展開していく。マタイがこのような話の進め方をした背後には聖霊の導きがあったと信じる。聖書は神の霊感によって書かれた書物である。今回のような箇所からも神の福音を聞き取っていきたい。

最初の弟子たち

イエスが最初に弟子にしたのが二組の漁師の兄弟であった。彼らを勧誘したときのイエスの言葉「人間をとる漁師にしてあげよう」これはどのような意味であろうか。 漁師とイエスの宣教の共通点、そして彼らを背後で支えた家族の存在を読み取りながら、主イエスがそれぞれの賜物を用いてくださることを期待したい。

福音は悔い改めから

「悔い改めよ、天国は近づいた」 イエスの3年半の宣教活動で行った宣教を最大限短い言葉で表現したのがこの言葉であろう。「悔い改めよ」と聞けば「罪」が連想されることが多いが、イエスの宣教は「罪」に焦点を合わせるのではなく、むしろ「神」に焦点を合わせるための呼びかけだと言える。「神の教えに人生の照準を当てて生きよ」という呼びかけである。このような意味で「悔い改めよ=方向転換せよ」と呼びかけた。

荒野の誘惑・後編

 新年度を迎え、マタイによる福音書からイエスが成し遂げようとされた宣教(神の意志)に耳を傾けていく。宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷での悪魔の誘惑に対し、イエスは『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と表現した。それで引き下がらなかった試みる者=悪魔の残り2つの誘惑、後編はこれらを扱う。

荒野の誘惑・前編

 新年度を迎えました。これから秋にかけてマタイによる福音書を読みながら、イエスがなされた味わい豊かな宣教に耳を傾けて参ります。最初は宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷を取り上げます。ここからイエスの宣教が揺るぎないものとなっていきます。共にそのみことばに耳を傾けて参りましょう。

復活をどう証明するか

イエス・キリストが「わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」を信じるか、それとも信じないのか。キリスト教信仰とは信じた後の応答の仕方が問われる。そして実際にはそれをどう実行するのかをイエス・キリストの復活の意味とともに見てゆく。

受難予告③ 十字架を明言される主

マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜか。弟子たちに語った目的とは。どんな内容を理解して欲しかったのか。受難週を次週に迎える今回は、マタイによる福音書20章に書かれている十二弟子だけに語られた受難予告から、十字架刑が意味するところ、そして預言者イザヤを通してこのことが神の御心であったことを確認していく。

受難予告② 見捨てられる苦しみ

マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜだったのか。弟子たちにどんな目的で語ったのか。どんな内容を理解して欲しかったのか。今回のシリーズの興味はそこにある。 それぞれの受難予告を比較検討していく時、そこに違いが存在することに気づく。そして次第にイエスの真の意図が見えてくる。24日に受難週、31日にイースターを迎える今だからこそ、共に理解を深めておきたい。

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