初代教会の姿②

はじめに

聖霊降臨日に発足した約3千名から始まった世界最初の教会は、イエス様同様に迫害され、命を脅かされる可能性がありました。しかし、生前のイエス様同様に最初は順調に宣教活動が開始されたと使徒行伝は伝えています。前回に続き、初代教会のクリスチャンたちが何を大切にして信仰生活を営んでいたのか、みことばに聞いていきます。中には現代では同じようには到底できないと思えることも語られています。これらは当時の文化的背景を知ることによって理解できる点もありますが、ここに語られている信徒の姿は、限りなく来るべき神の国の在り方を指し示していると考えられます。

聖書が私たちにチャレンジする内容は、どれも聖霊の導きと奇跡が求められる内容です。現在の私たちの生活、財産、人間関係を大きく変えることを意味する今日のみことばを、どう受け止めていけばいいのか、共に理解を深めてまいりましょう。

おそれの念が生じる信仰の大切さ

使徒行伝2章43-47節(新約183)

43節 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。

初代教会がどのような雰囲気を持っていたのかを想像する時、大切な特徴が、「みんなの者におそれの念が生じ」ていたことです。「おそれ」とは、神聖な畏れのことです。もちろん、当時のクリスチャンならば、だれもが迫害の危険を恐れ、自分の信仰の足りなさや罪深さの自覚などから来る惧れもあったことでしょう。しかし、これらのような「おそれ」ではなく、完全な清さと正義を全身に帯びておられる主なる神様を礼拝する「おそれ」のことをいいます。そして、私たちがいかに神様を礼拝するのにふさわしくないかということが自覚できるようになることをいいます。

わたしはかつて、このことを生涯忘れることができない悪夢を通して教えられました。その夢というのは、突然私の目の前に大きな心臓のような色をした物体が現れて、中にだれかが閉じ込められているようでした。わたしは全身に戦慄を覚えて、それから目を離すことができませんでした。この夢の世界ではその赤い物体の中にいる人の苦しみが直に伝わるような感覚に包まれました。それがあまりにもリアルでこの世でこれほどの深い悲しみと痛みが存在し得るものなのかとの強烈なおそれに全身の毛が逆立つのを感じました。この想像を絶する状況の中でその中にいた人物は魂の叫びをあげていて、私にはどうすることもできない、ただ茫然と見守ることしかできないという、そういう夢でした。その夢から覚めた時、すぐさまこれが神様からのしるしだと思い、その意味を探ろうと真剣に祈らされました。

ちなみに、43節に「奇跡としるし」という二つの単語がありますが、その違いを理解しておくことも大事です。「奇跡」とは、人知を超えた、通常起こりえない出来事が起きることをいいます。これに対して「しるし」とは、聖書の預言が成就することや、神様が聖書の預言に心を向けさせるために起こされる出来事をいいます。今回の夢は明らかに後者でした。

最初は世界のどこかでこれほどの苦しみの中にいる人のために祈りらされました。続いてこのようなことが未然にふせがれるように祈らされました。しかし、やがてその人物がだれであったのかが理解できたのです。私たちの罪のために私たちの罪と苦しみをご自身に引き受けられたイエス様なのだと。この時、主を畏れることの重要なヒントをいただきました。

どんな犠牲を払ってでも、黄泉にまで降って下さった主イエス様のあがないの御業を無にしてはいけないと。自分が救われたことの代償の大きさ、その自覚を日々明確にされていくものがクリスチャンです。真の救いは罪の自覚に打ちのめされることではなく、救いの代償の大きさに目が開かれていくことです。ここには天と地の差があります。ここに圧倒的な神の恵みと奇跡を体験したがらも自殺したユダと、イエス様を目の前で否定し、裏切りながらも立ち直ったペテロとの決定的な差があります。

試金石はよろこびとまごころが伴うこと

44節 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45節 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46節 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、

47節 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。

自分の罪深さと、イエス様の代償の大きさを自覚できればできるほど、人生のすべてを神様の御用のために聖別して用いることが喜びになります。しかも、それを自発的にせざるを得なくなります。ここに描かれている初代クリスチャン、そして教会の姿は現代では奇跡が起きなければ到底真似ができないように思えるかもしれません。しかし、ここで強調されていることは、みんながよろこびとまごころからこのように生きていたということです。

聖霊に満たされて生きることの現実、リアルがここに描かれています。神様からの恵みに応えていくためには、こうせざるを得ないという人々が取り得るその時の最善の選択だったのです。ここには一緒にいることが何よりも価値があると実感できる仲間がいました。自分のものを惜しみなく分け与えたいと思える人々がいました。一緒に祈りを合わせて礼拝できる神の国の家族がいました。お互いが聖霊によって出会わされたかけがえのない隣人だったのです。イエス様がすべてを犠牲にしてでも人類に与えたかった聖霊の祝福が、このようにして見える形で実現していったのです。

このような教会が地上に現れる時、聖霊は本格的に活動を開始することができます。こうして、初代クリスチャンはすべての人に好意を持たれる証し人となっていきました。聖霊の祝福の賜物です。そして、何よりも、毎日伝道が展開し、日々イエス様を信じてバプテスマを受ける人々が加えられていくことができたと聖書は証言しているのです。

おわりに

この聖霊の祝福は現代まで確実に継承されています。現在の世界のクリスチャン人口から逆算しても、2千年前から今日に至るまで、毎日3千人以上がバプテスマを受け続けなければ計算が追い付かないほどです。

8月は終戦記念月です。そして、日本においては原爆で犠牲になった方々を覚える月でもあります。戦争で犠牲になったすべての人を覚えたいと思います。口では到底表現できない極限の世界を体験した者だからこそ、二度と戦争、特に核爆弾は使用されてはならないと命がけで訴え続けている方々の志を受け継ぎたいと願わされます。

たとえ戦争を経験していない世代であっても、現代でも聖霊を通して人ではなく、罪を憎み、平和を実現するためにキリストの光を世に知らしめることはできます。共に聖霊によって日々造り変えられ、新たに希望の福音に生かされて参りましょう。

2026年8月9日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「初代教会の姿②」

礼拝動画は北九州キリスト教会のホームページからご覧いただけます。