主の名による最初の奇跡①
はじめに
ヘロデ大王が再建・拡張したエルサレム神殿には数多くの神殿境内に入るための門がありました。多くは木製の上に「金や銀の板」で装飾(メッキ)されていました。それらの門を通って、ユダヤ人だけでなく、異邦人も異邦人の庭という区域に入ることは許されていました。イエス様が神殿で商売をしていた人々とひと悶着があったのは、この区域でのことでした。
それとは区別されて、異邦人が入ることができない神殿境内の中心部が存在しました。そこに入るための門のことを「美しの門」と呼んでいました。この門は、神殿の東正面にある門であり、この門だけは特別にコリント産の超高品質な青銅で丸ごと造られていました。ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば、この門は、他の門よりもはるかに価値が高く、朝日を浴びると青銅独特の重厚で眩いばかりの光を放っていたと記録されています。その圧倒的で類まれな美しさゆえに、人々から通称として「美しの門(美しい門)」と呼ばれていました。
今回の話は、礼拝を捧げるために多くのユダヤ人が通ることになるこの美しの門の入口で起きた出来事についてです。
「ナザレ人イエス・キリストの名」によって癒しを宣言したペテロ
使徒行伝3章1-10節(新約184p)
3:1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、3:2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。3:3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。3:4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。3:5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、3:6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
ここでペテロが生まれつき歩行障害を持っていた男性に語った「わたしたちを見なさい」という言葉は、「私たちに全神経を集中しなさい」という意味が含まれている単語が使われています。当然、この男は期待を膨らませてペテロたちを見たことでしょう。その時、すぐさまペテロは、その男が誤解しないように、自分たちが与えるのはお金ではないことを伝えます。その上で、この男が生涯忘れることはないだろう大事な言葉を彼に投げかけました。
「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
これがペテロをはじめ、この世に生きるすべての人の人生を根本から創り変え、どんな困難な現実と絶望からもその人を立ち上がらせることができる、神の救いをもたらす言葉です。この言葉の一つ一つに重要な意味が含まれています。最初の「ナザレ人」には「ぶどう酒の原料の一大産地であるナザレ出身の人」という意味が込められています。聖書の様々な箇所で、ぶどうは神様の祝福と裁きを象徴する果物として登場します。それをつかさどる神の人こそ、ナザレ出身のイエスに他ならないという信仰理解がここに表現されているのです。
古来より、障害を持って生まれた者は、本人ないし、その家族が神様に背いたために神様からの裁きを受けているに違いないという理解がありました。「ナザレ人イエス」の名によるこの男の癒しは、これまでその男を苦しめていたそのようなレッテルから解放する役割もあったのです。(ヨハネによる福音書3章17節参照)
また、「イエス・キリストの名」とは、「イエスこそ神の救いをもたらすお方」という信仰理解が表現されている言葉です。そして、最後にその名によって「歩きなさい」とペテロは確信を込めてその男に促しました。これは「神様が特別に与える救いを体験して、今後はイエス様のように生きなさい」という強い招きの言葉だったのです。
ここで起きている二つの奇跡とは
3:7 こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、3:8 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
ここで語られている出来事には、どんな教訓があるのでしょうか。ここで起きている二つの特筆すべき奇跡とは何でしょうか。確かに、この男には奇跡が起き、40歳にして初めて歩き、踊ることができるようになりました。今後は仕事を見つけ、自分の体で仕事をして生きる道が開かれました。しかし、聖書が注目させているのは8節の後半部分です。これまでは自分の人生を呪い、他人をうらやむしかなかったような人生を送っていた人物が、踊りながら神様を賛美する者に変えられたことこそが真の奇跡なのです。神様の愛と祝福の凄さを知らなかった者が、本当の意味で神様こそが自分の救い主なのだと確信できたことこそが真の奇跡なのです。
もう一つの奇跡とは、ペテロの身に起きている信仰の飛躍的な成長です。ペテロはそれを6節で「わたしにあるものをあげよう。」と表現しました。これはペテロに奇跡を行う力があるという意味ではなく、イエス・キリストを信じる者は、確実に人生を変えていただけるとの、実体験から来る揺るぎない信仰のことです。しかもペテロは、単に男に言葉をかけただけでなく、7節によればペテロの手を差し出して男の右手を取って、力添えをしています。
かつてペテロも信仰が未熟だったため、湖の上で溺れそうになった時、イエス様に手を差し伸べてもらい、引き上げてもらったことがありました。彼もまた、イエス様の御名には、人生を根本から創り変える奇跡の力があることを信じて、それを行動に移す実行力が備わったのでした。これがもう一つの奇跡なのです。私たちに同じことが実行できるかどうかを考えた時に、その難易度がわかると思います。
おわりに
井戸水を汲み上げる時や、灯油をストーブに専用ポンプで入れる時には、「呼び水」の原理が用いられます。呼び水を介して、水や灯油が高低差を乗り越えて目的の場所に移動することが可能となります。イエス様が十字架で流された血潮や脇腹から外に流れ出た水、それは私たちを神様へとつなげる呼び水の役割そのものです。そして、それを受けた者も、別の人と神様を繋ぐ呼び水になっていくことができるのです。ここに今回の福音があります。
2026年9月6日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「主の名による最初の奇跡①」
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